田植え座学「稲作概論」その3

農業の歴史
栽培する品種がコシヒカリに変わってきたと同時に、牛や馬が耕運機に変わった。牛や馬を使っていたときは循環農業だった。牛や馬にワラを踏ませて堆肥を作って使っていた。毎年田に堆肥を入れていた。

昭和40年代になると機械化が進んだ。機械を効率的に動かすため1枚の田んぼを大きくする必要が出てきて、土地改良が進んだ。省力栽培が可能になり、効率化と無機栽培が進められていき、農作業が楽にできるようになった。

農薬には功罪がある。除草作業をしなくてよくなったし、病気にならなくなった。化学肥料も即効性があり、稲の様子をみながら量を調整することができた。日曜農家でも稲作ができるようになった。

一方、無機栽培をずっと続けると、有機物がなくなり、土は砂漠のようになってしまう。

昭和40年頃から、全国的に公害が騒がれた。熊本の水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市の喘息などがあった。初期の農薬はそういったものだった。

初期の除草剤でPCPというものがある。田んぼに散布すると水がロゼワインのように赤くなる。1週間くらいかけて除草する。稲には効かないがヒエには効く。ドジョウやヒル、オタマジャクシ、ゲンゴロウなどの水生昆虫が、全部水の上に浮き上がった。田んぼから排水された水は水系を伝わって川に出てきたので、トンボもホタルも見なくなった時期があった。

田んぼに有機水銀系の農薬を使った。学校ではお腹にいる寄生虫を殺すために子どもに飲ませていた。みんなが無知で人体への影響を知らなかった。昔の作業着は「さんぱく」という薄手のズボンだったので、水銀剤のセレサン石灰をまいた後に風呂ですね毛がぴりぴりして抜けたことがあった。

昭和38、39年に使っていた農薬に比べれば、今の農薬はとてもやさしくなっているが、農薬は農薬なのでできれば使いたくない。

昔、日本は田舎に行けばみんな農家だったが、農立国から商工業立国になった。生産物を売る農家になりなさいという政策だった。農家を減らすには有効な政策だった。ただ日本的な農家は、大規模なファーマーにはなり切れないのだと思う。