あぜ豆や堆肥、手作りの暮らし

座学では、田んぼで使う堆肥や、あぜに植える豆などについて、話を聞きました。

(あぜ豆と味噌)
昔は全部のあぜに豆を植えた。私の家では1年に10俵くらいの豆を採り、それで味噌を作った。昔は、自分で作れるようなものは全部作ったものだ。雪の中になる前3カ月の間に食べるものをいかに蓄えておけるかが大事だった。今は冬でも車ですぐにスーパーに買いに行けるが、昔は背中に背負って運ばないといけないので、大変だった。
南魚沼市内の徳田農産という会社に大豆を持っていくと味噌を作ってくれる。今の時季に「天地返し」をしないといけない。9月頃食べられるようになる。私の家では味噌の表面を昆布でおおっている。昆布のエキスが出てうまみが増す。

味噌はまず豆を茹でて潰す。潰したら塩と麹をよく交ぜて仕込む。昔は「味噌玉」を作って、いろりにぶら下げて乾かした。いぶされて味噌が黒くなったものだ。
私の家の蔵では、いくつもの大きな樽に味噌が仕込んであった。母親の実家には味噌専用の蔵「味噌蔵」があった。
昔は3-5年置いた味噌しか食べなかった。新しい味噌だと美味しくてたくさん食べてしまうので、食べ過ぎないように古い味噌を食べていた。昔は家族がたくさんいたので、経済が優先された。うまいものは食べさせられない時代だった。栄養的には古いもののほうがいい。

(堆肥)
昔はどこの家も馬や牛を飼っていた。あぜなどで刈った草を干して馬や牛の小屋に入れた。馬や牛に踏まれた草が貯まると、小屋から出して積み上げていった。それが堆肥の山で「肥山」と呼ばれていた。
春先の雪どけ前になると肥山から堆肥を出し、そりで離れた田んぼまで運んだ。田んぼに積もっている雪に一辺2mくらいの四角い穴を掘って、その中に堆肥を入れた。雪が溶けると堆肥だけが山になって残っているので、背負い式のカゴに移して田んぼに散らした。このカゴを「肥カゴ」と呼んだ。背負子に木で枠をつくって、縄で網をつけたもので、田植えの際の苗運びでも同様のものを使った。

(田植えと「結」)
昭和20年代頃までは6月末まで田植えをしていた。人を頼んだり、「結」をしたりして、5日から10日間をかけて田植えをした。結は、だいたい同じくらいの仕事ができる気の合う人たちが集まってやっていた。
私の家では隣の集落から人を雇って田植えをしてもらった。家に泊まってもらい、自分たちで作ったどぶろくを飲んでもらった。

(苗)
苗作りにも肥料を使えば生長がよくなると思う。化学肥料は即効性があり種類も多いので、早く苗を大きくすることができる。有機肥料は効きが遅いので、苗の生長に時間がかかる。化学肥料を使用する現代の一般的な農業では1週間から10日で苗が育つが、それ以上の時間がかかっている。天候に大きく左右される。
昔は苗作りの温度調節にロウ紙を使った。春先、「水苗代」を作ってもみをスジまきし、もみがらを焼いて作った「くん炭」をかけ、さらにロウ紙をかぶせて保温した。

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(Q:タイ米を輸入したほどの冷害のあった年と、今年はどっちが寒いか)
冷害の年は田植えの時は良かったが、その後寒くなった。東北は「やませ」が長期間吹いて大変だった。この辺は1〜2割落ち程度で、そんなに影響がなかった。
長年付き合いのある人に米を送ると「行列を作って米を買ったり、タイ米を買ったりせずに済んだ」と感謝された。1俵10万円でもいいから欲しいという人もいた。
今年は、田植え直後に気温が上がらない日が続いたが、最近の天候は上々だと思う。梅雨にちゃんと雨が降っている。夏にどうなるかで決まる。

(Q:田んぼの雑草は、コナギ以外に何があるか)
ヒエやオモダカ。雑草ではないが、今年はアオミドロが多い。

(Q:あぜ豆は昔からやっているそうだが、豆を狙って食べにくる動物はいるか)
昔は苗ではなく豆をあぜに植えたので、ハトが食べに来た。豆のサヤができるとウサギやタヌキが食べに来る。最近はイノシシが出るようになった。あぜ豆は食べないが、ヤマイモなど他の作物に被害があった。サルは出ていない。