初めての研究者との出逢い
〜世界の広がり〜
2001年のプログラムには、初期の頃からエコプラスの理事を務められる東北大学准教授の陶山さんが参加されていました。
「当時既に生命情報系の勉強がしたいと思っていたんです。そこで植物の研究をする陶山さんに出逢うことができた。合間に研究の話をたくさんしてくださったんです。確か化石から昔の生物の内容物を取ってDNA解析をするといった話だったように思います。『いいジャーナルになると思ったんだけど、狙っていたジャーナルには掲載されなかったんだよね〜』と話されていたのをすごく覚えています・・」
初めて研究者と身近に接した岩崎さんは、あらためてその道に進む決意を高めます。そして、陶山さんの人柄からもインパクトを受けたと言います。「今もきっと格好良いと思うんですが、あの頃の陶山さんは相当格好良かったです(笑)。まずワイルドだった。無人島に置かれても死ななさそうなスキルをもっていて、かつ穏やかな話しぶりだったんですよね。その当時の私の周りに、理性的・論理的に話をする大人っていうのがあまりいなかったんです。衝撃的でした」
葛藤の中で参加したヤップ。陶山さんとの出逢いを含め、普段接しない人たちと共に生活する空間が岩崎さん自身の世界を広げてくれたと言います。そうした世界の広がりを胸に、岩崎さんはその後、研究者を志す自分の道を歩み始めます。
研究者としての道を歩む
〜湘南、鶴岡、京都を渡り〜
帰国後、早く遺伝子の研究がしたい一方で、どこの大学でどんな研究するのがよいのか迷っていた岩崎さんは、当時注目度が高まっていたAI(人工知能)を活用して、膨大な生命の情報を研究することに可能性を見出します。そして、通信制過程で高校卒業資格を得てから一浪を経て、湘南藤沢にある慶應義塾大学環境情報学部(SFC)に入学しました。そこでの研究生活が自身の原点となったと語ります。
「SFCは、大学1年生から研究室に入れるんです。私も1年生から研究室に入って研究を始めました。研究室の教授に、『たとえ1年生でも、君たちは研究を始めた以上はみんな研究者です。研究者には上も下もない。半学半教・独立自尊の精神を持ちましょう。』と言われて、一人前として扱われたんです。3年生からは山形の鶴岡市にある慶應大学の研究所に移ったんですけど、周りにすごくできる先輩や同級生がいました。みんな、研究をしたくて鶴岡まで来ていて、お互い切磋琢磨しあうような環境がすごく楽しくて刺激的でした」
画一的な世界に苦しんだ岩崎さんだからこそ、独創性や責任が必要とされ、互いに刺激し合う研究者同士の共同生活が水にあっていたのかもしれません。「研究者って、職業として人と違うことが求められるんですね。こうじゃなければいけない、とかこうすべき、ではなく、自分が面白いと思ったものを、いかに面白いかっていうのをアピールして結果を残していく。そうした個人が重視されるんです。そして、何か新しいことに対して、自分の無知さを理解して、謙虚に勉強し続けられる。そういう人が研究者なんだろうなと思いますし、そうありたいと思っています」。
その後、京都大学に移って博士号を取得した岩崎さんは、ポスドク先としてiPS細胞研究所で働き始めることになります。現在では研究グループを任され、2019年には初めて責任著者として論文を執筆するなど研究者の道を突き進んでいます。
「研究では、どんなに小さいことでも世界で最初に何かを発見するという体験ができるんです。よく考えないと気付かないことだったり、この知識がないと気付かないことだったり、といったことが、ピースがはまったように新しいことに気付く瞬間っていうのは、本当に楽しい。これからは、難病の疾患研究を行う予定です。多能性幹細胞で特徴的に発現しているタンパク質が、日本に患者が100人しかいないような難病と言われる疾患発症にどう影響しているのかという研究をしていきたいと考えています。これからも信頼できる人たちを巻き込んで、面白いことをやりたいと思っています」