シリーズ ヤップでまかれた種たち

地域で茶業を受け継ぐ意味を問う

 秦野で生まれ、小さい頃から丹沢の森で育ち、自然と接してきた高梨さん。「ゲームなどしなくても周りにいくらでも遊ぶところがありました。野原も、川も。自分で遊び方を探して、意味もなく、土を掘り返してみたり。触ると切れる草があるんですけど、それで体中傷だらけになったり。茶畑でも隠れんぼをしたりして遊びましたね。お茶の木に隠れようとしてしゃがむと、土にミミズやバッタ、カマキリがいるので捕まえて遊んだりしました」。

 茶畑で遊び、土地を身近に感じていた高梨さん。「自分は他の茶園の後継者とは違って、小さい時から『手伝え』とか『後を継げ』ということは言われてこなかったんですね。ただ、お祖父ちゃんや父の働く姿を見ていて、何となく自分もそうなるのかなと自然に受け入れていました」。

 当時を思い返す高梨さん。「自分が高梨茶園をやることによって、自分が遊んだ野原とか茶畑とか、地域の農業を守れるんだと思った瞬間があって。自分がやらないと誰もできないと思った時に、その姿を将来見た時に自分自身が悲しむだろうなと。そこで決意が生まれました」。

 自身の生い立ちや原体験から生まれた強い意志のもとで、18歳の時に茶業の道に進んだ高梨さん。その後、静岡県島田市の「国立野菜茶業研究所(現・独立行政法人農業技術研究機構)」で2年間学ぶことになります。

 「自分は決意だけはあったけど無知だったので、お茶のことを学ぶのが本当に楽しくて。お茶ってこうやって入れるんだよとか、こういう味がするんだよ、こういう品種があるんだよというのを聴くのが本当に新鮮でした。静岡の茶畑がすごく広いのも衝撃でしたね。勉強は好きではなかったんですけど、始めて学ぶことが好きなんだなと気づきました」と語る高梨さん。

 その後の高梨さんに大きな影響を与えることになる手もみ茶製法との出会いもその頃でした。

手もみ茶製法と出会って

 「数ある衝撃の中でも、一番は手もみ茶製法に出会ったときですね。小さい頃からうちの父も手もみ茶の体験会はやっていたので、私も真似して遊んでいたんですが、静岡ではその技術が極限まで洗練されていて。最終的にその技術を極めると、茶葉を針状に伸ばして、障子にささるくらいになるんですよ。本来お茶って、飲めれば問題ないんです。お茶の木は生命力も強いので、昔の方は畑に適当に植えて、摘んで、乾燥させてはい終わりという感じだったのですが、静岡はそこからどうやったら美しくなるか、美味しくなるかを考えて、民芸品から芸術品の域へと昇華させていったんです」

 手もみ茶製法を、絵を描くようなイメージの芸術だと語る高梨さん。「手もみ茶は江戸時代にできた伝統製法です。大量にはできないので、今は機械でつくりますが、その機械にも手もみ茶の技術が応用されているんですね。手もみ茶で培った経験は、実際にお茶をつくるための基礎として役立っています」静岡での出会いから今までご自身のライフワークのテーマとして掲げて取り組み、探求を続けています。