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場とは何か、教育とは何か

論点整理で発言する安藤さん
 国際シンポジウム「グローバリゼーションと地域」の2日目(1月22日)、それまでの議論をまとめていただいた安藤聡彦さん(埼玉大学教授)のお話です。「どう生きるか」ということから場を考える問いを投げ掛けてもらいました。

 私たちが求めている社会とはどういったものなのか、私たちはどういった社会で生きたいと思っているのか、かけがえのない一回の人生を生きるにはどのような社会がふさわしいか、さらにその中で行われる教育はどのようなものであるべきなのか、ということです。

 政治学者のヘイワードさん、建築家のベンクスさん、写真家の桃井さん、どなたも教育そのものを語るというよりも、教育の背景にある社会を通して教育の新たな方向性について私たちに問題提起をしてくださったと考えています。言ってみれば、環境と社会と教育とをつなぎ直す、再構築する、そのための原理や哲学を話してくださりました。

 現代社会がそれぞれの場所に深く映し出されているということが浮かび上がってきたのではないかと思います。グローバリゼーションという現代社会の趨勢は地域、あるいは特定の場所の中に具体的な形をとって現れるということも再認識いたしました。

 古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスは、「万物は流転する」と言いました。グローバリゼーションというのは、「万物の流転」が世界規模で絶え間なく生じるということでしょうか。それぞれの場所の中で流動性と不動性、どんどん変化するものと変わらないもの、動いていくものと安定しているもの、それら両者がせめぎあい、あるいはお互いの中に入り込んで、相互浸透があるという事実でした。
 流動するものと不動のもの、あるいは変化するものと変化すべきでないもの、それらをどのように織り上げていくのか、その織り上げ方についての思想や実践、あるいはそれらにかかわる教育、学習だったのではないかと思います。
 ヘイワードさんからは、政治、民主主義、参加、アイデンティティなど、ベンクスさんからは、文化、技術、交流、そして桃井さんからは、宗教、歴史、暮らし、などというキーワードが示されました。
 流動性と不動性のつなぎ方、変化するものと変化しないものをどのように結び合わせていくのかが課題だと考えます。

 人が生きるに値する場所とはどういうものなのか。そして、そのような場所を作りだし、そこに住む人間を形成するための教育に必要なことは何なのか。

 1885年にイギリスのウイリアム・モリスが行った「「如何に生きているか」と「如何に生きるべきか」」(‘”How we live” and “How we might live”’)という有名な講演があります。
 世界の工場と言われたイギリスは、1870年代以降、大不況に陥り、膨大な失業者が出て、「貧困の再発見」ということが言われていました。そういう中で工芸家でありデザイナーであり建築家であったモリスは、自分たちはどのように生きているのかと提起しました。モリスは「私達は戦争の中で生きている」と言っています。その戦争というのは、世界的な大競争の中にある国家間の競争、会社同士の競争、そして人間同士の競争のことなのだ、と言います。ともすると、人間はその「戦争」の中に巻き込まれて、人に対して復讐の心を持ったり、絶望したり、不安におののいたりする。それに対して労働者達はいったいどのように生きればよいのか。モリスは、そこでそれは「まともな生活」(decent life)なのだ、というのですね。その結論は以下の通りです。

 「まともな生活に対する私のいろいろな要求を要約すると、こうである。第一に健康な身体、第二には過去、現在、未来に応じた活動的知力、第三は健康な身体と活動的知力にふさわしい仕事。そして第四には生活するための美しい世界」

 1番目と2番目は人間の側の条件、3番目は労働という社会的条件、そして最後の4番目は社会的条件と環境的条件とがあわさったもの。なかでも、最後の「生活するための美しい世界」とはどんな世界なんでしょうか。
 私は世界につながるためのささやかな取り組みとして、スマホにアラブ系メディア・アルジャジーラのアプリを入れています。一日とか2日に1回それを立ち上げると、ほとんどんの情報にdeathとかkillとかが含まれています。地中海で密航船が難破したとか、アレッポが攻撃されたとか。おそらく現在のアレッポのような場所のあり方というのは、モリスが考えた「生活するための美しい社会」ではないはずです。

 モリスは、その4つのことを実現するために何が必要なのかと考えたときに、それらについて考えるための教育が必要である、ということを言います。そうか、やっぱり教育って大事なんだと思います。