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民主主義を日々積み重ねよう!“Practice Democracy Everyday”

 1月21日の国際シンポジウムでの、ブロンウィン・ヘイワードさんの発言要旨です。やっと整理が出来たので掲載します。

シチズンシップ(市民の役割)
 日本やニュージーランドでは高齢化が大変深刻な問題になっています。しかし、世界人口の半分は25歳以下で、都市で育っています。どうやってこの若者たちに、市民としての役割を考えるように手助けできるか。それが私の関心事です。

若者が直面する4つの課題
①危機的な環境の変化
 2011年にニュージーランドのクライストチャーチで大きな地震が起きました。福島がそれに続き、大きな被害を出しました。自然のもつ急激な変動と、ゆっくりした変動の双方が、これからの世代を襲うことでしょう。実際にその悲劇に直面するのは、孫や子どもということになるでしょう。

②地域の弱体化
 企業が、有利な税制や雇用を求めて地球規模で簡単に移動する時代。その企業をどう引き止めようかと自治体や国々が苦悩しています。企業と地域社会の関係をどう築くか。グローバルな経済と地域の民主主義との関係の維持は、より難しくなろうとしています。

③社会的格差の拡大
 多くの国々での課題となっています。過去30年、ニュージーランドでの貧富の格差は,スウェーデンに次いで世界ではもっとも大きく広がってしまいました。
 人々は、不平等ということについて敏感になっています。

④不安定な雇用
 若者の仕事がない、あるいは不安定な雇用状況が広がっています。ユニセフと世界銀行による調査では、例えばチュニジアという国でいま13歳の若者が、今後10年の間に職に就けるかどうかは、この先10年の間、毎年650万の新しい職が生み出され続けなければならないということでした。私たちの社会、経済、そして環境は、どうやってそれを実現できるでしょうか。

 私たちは考え方を変え、世界的な視野から考えないといけなくなっているのです。同時に、私たちの世代が作り出した世界的な課題に対して若い世代が取り組むのを、どう支えることが出来るのか。高度につながりあい、都市化されデジタル化された世界の中で、市民になるということはどういうことなのか、その若い市民たちがつながりあうことをどう支援するかを考えねばなりません。

ヘイワードさんのSEEDSモデルのスライド

SEEDSモデル
 私は、シチズンシップや、ある場所に存在し,所属し、関わるということを考える「SEEDSモデル」を提案しています。

Social Agency(協働意識)
 個人として権威から離れ、自ら思い描くことが出来る。行動することが出来る。それが西洋における啓蒙思想にもつながっていく、個人が考え,行動するという世界です。問題点の一つは、最後には「私がこの国を再び偉大にする」というような権威主義的なリーダーに行き着いてしまうということです。
 私が推し進めたいのは、個人としてのAgency(行動意識)ではなく、社会的な行動意識です。いかに他の人々との連帯の中で、コミュニティの中で尊敬しあいながら、つながりあって行動できるか。ということです。難しいことです。みんな違っているからです。
 この例の一つです。私が住むクライストチャーチでは、2011年2月の大地震の後、学生たちはフェイスブックで仲間を募って町の片づけ作業を始めたのです。6月に二度目の大きな地震が起こった時には2万4千人が組織されていました。大きな変化のためにともに汗を流し,行動したのです。

Environmental Education(環境教育)
 単に気候変動や、水の循環や土壌の科学などについて知るだけでは十分ではないのです。その土地の物語を聞き,その場の歴史を知り、そこで友達と仲良くなり,その場をもっと理解し、そこで遊ぶことに自信を持ち、その場が好きになり,その一部になっていると感じることが必要なのです。
 ニュージーランドの先住民マオリには、スランガワエワエ(turangawaewae)という素敵な言葉があります。私が立つ場所という意味です。この土地を、そこにいる人々を、その歴史を、その自然環境を理解しており、自信を持っているということなのです。

Embedded Justice(場の正義)
 経済学者のアマルティア・センがいうところの正義です。人々の声に耳を傾け、その状況をしっかりと理解し、解決のための正しい道筋を考え、決断することを支援するということです。
 私たちはこれまでの歴史を背負い、過去のいくつもの戦争を経て、多くの犠牲があり、自分たちが考える正義があり、思い込みもあり、恐怖や愛、希望を持っています。その中で、どう正しい判断をしていくのかということを、子どもだけでなく大人に学んでもらうことが必要です。
 困難な時代には、社会を操作することはたやすいことです。だれか特別な人たちに、不正義や不公平さを押し付ければいいのです。壁を作れとか、あの島を孤立させてしまえとかいうのです。彼らが悪い、と。
 環境問題でも、問題を生み出した長い歴史を省みることなく公正な決断をするということはできないのが、実際なのです。この産業化の恩恵を受けてこなかった人々のことを考えないでいいのでしょうか。資源の配分、温暖化ガスの排出枠。

Decentered Democracy(あちこちにある民主主義)
 哲学者のアイリス・ヤングが語った民主主義の非中央化ということを考えなければならないと思います。ニューヨークでウォールストリートを占拠する抗議活動が世界に広がったのがその例です。自分の住む街で、あなたの街で、だれかの街で、どのように会話をするのか。個別の課題ではあっても、それはつながりあっているということです。たとえば今日、世界165カ国で女性たちが権威主義のトランプ大統領に対する講義活動をしています。それぞれの場所で、共有する課題について議論する。それが非中央化された民主主義です。

 3年か4年か5年かに1回だけ投票する民主主義とは違って、日々判断を積み重ねるということなのです。世界各地の思慮深い、排他的でない会話をつなげる民主主義なのです。自分の声が届いていると感じてもらえるように進める。どのように他人の意見を聞くかということにもっと力を注ぐ必要があると思います。
 思いやりをもって地域の会話を聞き、それをつなぐということをどう教え、考えるかは、とても大事なことになってきていると思います。

Self-transcendence(自己超越)
 西洋では個人主義が強調されます。しかし私は、子どもたちはこういう課題を前にして決してひとりでいるのではない、かれらはもっと大きな社会の一部である、そう理解してもらうために、どうすればいいかと考えています。自己超越という概念です。今の自分を超えるより大きなものとの一体感のことです。宗教やあるいは神秘的な体験、自然との一体感、地域や家族、種族との連帯感、長い歴史の一部であると感じることを通して実現されるものです。若者たちが、自分自身の枠をはるかに超えて、何かより大きなものに支えられている、時間と空間と歴史の一部になっている、いまは無くなってしまった昔からの何者かの一部であり、これから登場してくる未来世代の一部であると感じることなのです。

エコロジカルシチズンシップ
 市民の役割、シチズンシップというものをもっと幅広く、毎日の暮らしを考えるものとして再定義する必要があると思います。エコロジカルシチズンシップ(生態系に配慮した市民の役割)と呼びたいと思います。私たちを取り巻くさまざまな要素、そして生態系に気を配るということです。
 これは、トランプ大統領の登場や英国のEU離脱という流れに対する即効薬ではありません。しかし長い時間をかけた、小さなことの積み重ねが大事なのだと思います。毎日の暮らしの中で民主主義の修練をどう積み重ねていくか、なのです。

高野孝子の地球日記・エジンバラのクリスマスに

リボンがかかった塗装の2階建てバス

2016年12月後半、クリスマスを前にして、スコットランドの首都エジンバラの街はどんどん静かになっていくようだった。人々は仕事にめどをつけ、実家に戻ったり、休暇で海外に行ったりしているようだった。

街に派手な飾りはない。二階建てバスが、リボンで飾られたような模様に塗られていたり、目抜通りの建物が金や赤の飾りをつけていたりするくらいだ。

エジンバラに暮らす友人たちと久しぶりに再会した。たわいのない近況話に花が咲く。しかし同時に、英国がEUから離脱することや、アメリカの新しい大統領のことも話に入ってくる。

「まったくしょうがない。でも決まったんだから、これからを考えないとな」。

押し引きが続く英国とEUの様子は連日報道されていた。フランスやイタリア、ドイツ、そして増え続ける難民やシリア情勢。ただの話題としてでなく、実際に難民をサポートする団体に寄付をしたり、アレッポの状況を私に教えてくれたり、英国では、世界情勢を自分ごととしている人たちに多く会った。特別な人たちではない。家の修繕を頼んだ大工さんも難民の話をしていた。

彼らの会話のグローバルな幅に、こちらの知識がついていかない。日本のグローバル化は経済や商品で顕著だが、人の移動や仕事はまだヨーロッパほどではない。日本でグローバル化が進むときは、政治や人の意識まで変わるのだろうか。様々な国際的な事象を自分ごとに、と。

2004年に東ヨーロッパ諸国がEUに加盟したさい、英国にはたくさんの移民が働きに入ってきた。特にポーランドからの流入が多く、多くの友人たちが自虐的に冗談を言っていたのを覚えている。それでも、2015年に海岸に打ち寄せられたシリア難民の子どもの写真をきっかけに、英国で難民を受け入れるべきだという市民の声が高まった。難民支援のデモが行われ、チャリティ団体が物資を送る運動を始めた。ドイツからのプレッシャーもあって、英国政府は、そのあと数年間で2万人のシリア難民を受け入れると発表した。

日本は「移民を受け入れない」政策を堅持している。法務省のサイトによると、昨年の難民認定申請者数は7586人で過去最多だったという。一方認定者数は27人で、前年より16人増加。うち、シリア人は3名。

この政策を変えるだけの意識を日本人は持てるだろうか。いや、そもそも、国民がどんな意識を持っていようと、何を訴えようと、現政権にはまったく通用しないことがわかっているから、問題意識すら持つのがばからしい。考えない国民、それが彼らのねらいなのか。

ミサが行われた後の、セントメリー教会。

12月25日、クリスマスの朝。英国国教会派のSt Mary’s大聖堂を徒歩で目指した。この日は、バスはほぼ動かず、電車も止まっていて駅の門には鍵がかかっている。50分ほど早足で歩き、150年ほど前に建立が始まった大きな建物に到着し、10時からのミサに間に合った。

賛美歌と説教が繰り返される。途中、全員が立ち上がり、隣や前後に座っている人たちと握手し、”May peace be with you(平和があなたと共にありますように)”と微笑みあった。大人も子どもも。私も声をかけられて、少し戸惑った。

「平和があなたと共にありますように」。心の中で繰り返した。あなたの平和を祈るのだ。私が幸せでありますように、ではなく。

セントメリー教会の入り口

教会を出ると、少し離れた左手に物乞いが座り、すぐ右手に茶褐色の肌をした中年女性が「ビッグイシュー」(ホームレスの自立を支援する雑誌)を掲げて立っていた。1部買おうとしたら「私にも寄付をください」と言って、1ポンド少ないお釣を私に差し出し、にっこり笑った。

その雑誌には、失業や貧困、ドラッグなどに苦しみながらも前を向こうとする人たちの記事の中、スコットランド自治政府首相が、英国のEU離脱とシリア難民受け入れ、アメリカの大統領についてコメントする記事が載っていた。

英国社会での政治と暮らしの近さ、人々の社会的意識の高さを思った。