「地球交響曲第七番」の南魚沼上映会開かれる

エコプラスの代表理事高野孝子が出演する「地球交響曲第七番」の特別招待上映会が、2010年7月31日に新潟県南魚沼市で開かれ、映画と龍村仁監督のトークを楽しみました。

 

会場となった南魚沼市市民会館には、80人の招待者が集まりました。
会場となった南魚沼市市民会館には、80人の招待者が集まりました。

地球交響曲第七番の新潟県内での上映会は、これが初めて。しかも特別に招待した関係者だけが対象で、そこに龍村監督が登場するとあって、開始時間の午後1時過ぎには会場はぼぼ満員。

南魚沼市民会館のスタッフによる入念な事前準備のおかげで、映像も音も本物の映画館に近い「最高の状態」(龍村監督)。

すべてのものに神が宿るとする日本神道の思想を象徴する全国12の神社のさまざまな儀式を基調に、高野のほかに、世界的な自転車レーサーであるグレッグ・レモン氏、統合医療の先駆者アンドリュー・ワイル博士の計3人のストーリーが、スクリーンに登場しました。

上映後、高野孝子と対談する龍村仁監督。70歳とは思えぬ元気さでした。
上映後、高野孝子と対談する龍村仁監督。70歳とは思えぬ元気さでした。

地元南魚沼市の清水集落での雪中キャンプの場面では、参加した地元小中学生らも一生懸命に画面を見つめていました。栃窪集落から見渡すダイナミックな景観、田んぼに六角の枠で田植えのための印をつける場面など、地元の人々が日ごろ目にする光景が、鮮やかな場面として登場しました。

見た人たちは、「日ごろ見ているけれど、地元の景色は本当に美しい」などと話していました。

10月26日には、東京でもエコプラスの上映会を開く予定です

池の生きもの

通りがかりに何となくのぞき込んだ池に、黒いオタマジャクシがたくさんいました。
連日30度を越える「夏」が来ました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 集落内のとある家の池に黒いオタマジャクシのような生きものが見えました。家の人に許しを得て池のふちまで行ってみると、やはりオタマジャクシでした。オタマジャクシと言えば、一般的には春のイメージが強いようですが、夏も秋も、種類によっては冬、氷でおおわれた田んぼ跡にもオタマジャクシがいるということが、栃窪の生きものプロジェクトでわかっています。

家の人は、モリアオガエルのオタマジャクシではないかとはなしていました。池の周辺でじっとしているモリアオガエルをよく見かけるので、もしかすると親で、オタマジャクシを見張っているのではないか、というのです。池の周りをよく見てみましたが、その日は見当たりませんでした。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA ことの真相は定かではありませんが、その池には清水が流れ込んでいるそうで、水草がたくさん生えて、イトトンボのつがいが何組も産卵をしていたり、底の方にサンショウウオの子どもと思われる生きものがいたりしました。コンクリートで囲まれていて生きものがいないようにも見える池なのですが、中は生きものであふれていました。

緑の棚田にアートが浮かぶ・・・棚田草刈りアート日本選手権大会

第3回棚田草刈りアート選手権大会が、2010年7月18日に新潟県南魚沼市栃窪地区で開かれ、29組61人が、棚田に広がる緑のあぜに、創意あふれる作品を作り上げました。
今回の棚田草刈りアート日本選手権大会には、地元集落からは無論、集落外から8組25人が参加。遠く岩手県一関市や東京都からも親子連れやデザイナーさんらが集まりました。

快晴のもと、棚田の斜面に思い思いのアートを描き出す参加者たち。
快晴のもと、棚田の斜面に思い思いのアートを描き出す参加者たち。

午前8時からの開会式では、初出場の長岡造形大学の6人の学生を代表して大澤さんが選手宣誓。一斉に、約2キロ四方に散在するキャンバスでの制作にかかりました。集落内の人たちは数日前までに制作を終え、この日は外部からの参加者へのサポート役に回り、村人と外部の人が一緒になってあぜを走り回って作品を仕上げていきました。

正午までに制作を終え、午後1時から審査開始。集落の区長、婦人会長らに加え、長岡造形大学の渡辺誠介准教授の特別審査員が、作品の完成度、独創性など5つの視点から採点をしました。さらに全作品をめぐった一般参加者による投票も行われ、30人近くが審査に参加しました。

優勝した笛木常信さんの作品。「こんな減反、しとうはなかった」と休耕田に描いたメッセージは強烈だ。
優勝した笛木常信さんの作品。「こんな減反、しとうはなかった」と休耕田に描いたメッセージは強烈だ。

最優秀作品に選ばれたのは、地元の笛木常信さん(75歳)の「ワシはこんな減反しとうなかった」。常信さんは、他の参加者があぜを刈り込んだのに対して、自分の休耕田をキャンバスに利用。タイトル通りの文字を浮き上がらせました。参加最高齢で、去年までは集落の最大勢力老人会の会長を務めていた常信さんならではの、重たいメッセージに、一般審査員から多くの支持が集まり、第1位に押し上げられました。
第2位は、細く長いあぜに、新幹線を描いた笛木亨さんの「トレイン トレイン 」。第3位は、地元集落営農組織であるとちくぼパノラマ農産の「ぱのらまのうさん専属合唱団ゲコッ代表あいさつ」でした。

この大会は、栃窪行政区の実行委員会主催、エコプラスのTAPPOが事務局支援を行いました。

貴重な生き物が続々、、生物多様性保全・教育プロジェクト〜清水いきもの復活大作戦・夏の巻〜開催

7 月10-11日に実施した今年2回目の活動には、首都圏の大学生や社会人を中心に13名が参加し、専門家や地元の人たちと一緒に調査と保全作業を行いました。
新潟県南魚沼市清水で2回目の生き物復活大作戦が7 月10-11日に行われました。今回は保全活動だけではなく、専門家と一緒に調査をし、今後の方向性についても検討しました。

このプロジェクトには、アドバザーとして3人の専門家の方たちに関わっていただいています。(社)日本環境教育フォーラム理事の北野日出男さん、(財)日本自然保護協会常勤理事の横山隆一さん、新潟県立小出高校教諭の深沢和基さんです。
初日の午後は、3人全員が集まって、清水の人や参加者と一緒に調査をするという貴重な機会となりました。
保全地域の「西谷後」「大明神」、それぞれの観察池に行くと、5月に実施した前回の活動で作った木道は、すっかりなじんでいました。池の周囲には草が伸び、前回の参加者からは「前と様子が全然違う!」という声があがっていました。

「詳しく知るとかわいく見えてくる!」とガの幼虫を腕にのせる参加者。
「詳しく知るとかわいく見えてくる!」とガの幼虫を腕にのせる参加者。

調査が始まるとすぐに、専門家の方たちのまわりには人が集まり、観察会が始まりました。ネキトンボ、繭の中にいるコマユバチの幼虫、プラナリア、センチコガネ、コオイムシなど様々な生き物が姿を現しました。
どの生き物についても、専門家の方々が丁寧に解説をしてくれるので、地元の人も参加者もぐいぐいと生き物の世界に引き付けられていくようでした。大きな毛虫を「かわいく見えてきた」と言って腕に乗せる参加者もいました。

西谷後の作業の様子。背の高いアシやススキを刈っていきました。
西谷後の作業の様子。背の高いアシやススキを刈っていきました。

2日目は午前中に保全作業を行いました。陸地化(乾燥化)を防ぎ、湿地の生き物が生息できるように、イグサを残し、ススキやヨシなど背の高い草をカマで刈っていきました。
池のまわりにびっしりと草が生えていましたが、15人ほどが一気に作業を始めると、短時間のうちに背の高い草がすっかりなくなり、別の場所のようになっていきました。時々、地元の方からカマの使い方指導がはいっていました。

新潟県の絶滅危惧2類に指定されているサワギキョウがいたるところに生えていたり、背の高い草を刈っていくと、ショウブの群生地が現れたりと、貴重な植物があることがわかり、清水の人たちも驚いていました。

作業をしながらも、羽化したてのオニヤンマやミズグモ、モリアオガエル、鳥の巣と卵など様々な生き物を見つけ、観察しました。アカショウビンやクロツグミなど鳥の声も聞くことができました。

2日間の活動で、参加者からは、多様な生き物がいる環境を守ることや、人間が手を入れることがなぜ必要なのかわかったという声が多く聞かれました。同時に、生き物に対する好奇心にあふれた専門家の方々の生き方にも、刺激を受けた人が多かったようです。

参加者の感想(アンケートより)
・どの生物にも役割があって、それで自然が成立していることに気づいた。

・「害虫、益虫、ただの虫」全部必要で、害虫だから全て殺す、益虫だから全て残すというわけではないという横山さんの話で、自分は「益」なものばかり集めようとして、バランスを悪くしているのかなーと思った。

・自分の五感が研ぎすまされた。都会にはない人の温かさをもらった。

・ 自然も必要なものだけが重要なのではなく多様であることが大切。同様に人間も多様な考え、やり方の人が共存しつつ多様で豊かな世の中になっていくと良いのかもしれない。

・ 清水の皆さんの姿をみて、私も郷里の旧友や親せきのことを思い出した。清水には古き良きコミュニティが残っているように思う。

夏本番

栃窪集落で夏祭りが行われました。

大人みこし(左)と子どもみこし(右)。
大人みこし(左)と子どもみこし(右)。

 

11日の午前中、神楽、露払い、のぼりを持つ人々、神社に納められている小さな社、陣太鼓、神主、天狗、そして子どもみこし、大人みこしと続く行列が、集落内を練り歩きました。各家の前まで来るとみこしをもんでいました。
社は、高齢のため神社まで足を運ぶことができなくなった人たちが拝めるようにと運ばれているとのことです。

みこしの後には、集落センターで焼きそばやスイカがふるまわれていました。
今日の気温は23度、天気はくもりときどき小雨と涼しい気候でしたが、年に1度の祭とあって、大人も子どもも楽しげに話をする声が、集落センターに響いていました。

年男や厄年の男性が務める「天狗」。今年は集落内の「パノラマ農産」に勤務する男性でした。
年男や厄年の男性が務める「天狗」。今年は集落内の「パノラマ農産」に勤務する男性でした。

あぜ一面の草をカマで刈り取り

東京や千葉から来た参加者6人が、カマを使った草刈りやあぜ豆植えなどを体験しました。
2010年度の休日農業講座「田んぼのイロハ」草刈りの講座が、7月3−4日に開かれました。東京や千葉からの社会人、学生、家族連れなど6人が、カマを使ったあぜの草刈りを体験した他、集落内散策、ホタル鑑賞などを行いました。

初日は、地元の笛木晶さんを講師に、散策と座学を実施。棚田で田んぼの生きものを観察した後、昨年草刈りの際に作った堆肥を見学しました。参加者は、途中で道端の桑の実を食べ、モリアオガエルの卵やイトトンボを見るなどして、自然とふれあいながら散策していました。
座学では、堆肥やあぜ豆について、昔の暮らしの様子と合わせて説明がありました。あぜ豆の話から、手づくりみその仕込み方も話題になっていました。
夕食後、地元の笛木健作さんが案内をしてくれ、水路沿いや沢沿いの農道で、ホタルが飛ぶ様子を眺めました。多い場所で10匹ほどのホタルが飛んでいました。

「刃に対して砥石を45度に傾けて研ぐのがポイント」と地元の桑原一男さん。
「刃に対して砥石を45度に傾けて研ぐのがポイント」と地元の桑原一男さん。

2日目は、参加者は小雨の中でのあぜの草刈りに挑戦しました。
作業には地元の笛木晶さん、桑原一男さん・信子さん、笛木久稔さんが加わり、カマの研ぎ方、草の刈り方を教えてくれました。参加者は自分で研いだカマを持ち、カマでたたくようにしながら草を刈りました。草刈りの間中、一男さんはカマを研ぎ続け、刈りにくそうにしている参加者のカマと研いだカマを交換していました。一男さんからカマを受け取った参加者は、その切れ味の違いにおどろいていました。幅3メートルほど、長さ80メートルほどのあぜの草を、2時間足らずで刈り終えました。
刈った草は、堆肥にするために集め、縦180センチ横90センチの木枠につめ込み、ぎゅうぎゅうに踏み固めました。木枠から数センチはみ出て、60センチほどの高さになりました。
草を刈り終えたあぜには、大豆の苗を2本ずつ、30センチほどの間隔をあけて植えました。根元には、もみがらを炭にした「くん炭」をかけました。くん炭には微生物が集まりやすく、植物の生長をよくするのだそうです。この大豆は、11月に収穫を予定しています。

あぜには様々な種類の植物が生えていました。「いいフキがあったから」と、地元の人は、参加者にフキを取ってあげていました。
あぜには様々な種類の植物が生えていました。「いいフキがあったから」と、地元の人は、参加者にフキを取ってあげていました。

参加者のふりかえりでは、「あぜ豆から味噌を作った話などから、昔から自給してきた様子が分かった」「小さなカエルがたくさんいて、前回に大量にいたオタマジャクシがカエルになったことが想像できた」「始めはカマでの草刈りは大変だと思ったけれど、人数がいると楽しくできると思った」などのコメントがありました。

あぜ豆や堆肥、手作りの暮らし

座学では、田んぼで使う堆肥や、あぜに植える豆などについて、話を聞きました。

(あぜ豆と味噌)
昔は全部のあぜに豆を植えた。私の家では1年に10俵くらいの豆を採り、それで味噌を作った。昔は、自分で作れるようなものは全部作ったものだ。雪の中になる前3カ月の間に食べるものをいかに蓄えておけるかが大事だった。今は冬でも車ですぐにスーパーに買いに行けるが、昔は背中に背負って運ばないといけないので、大変だった。
南魚沼市内の徳田農産という会社に大豆を持っていくと味噌を作ってくれる。今の時季に「天地返し」をしないといけない。9月頃食べられるようになる。私の家では味噌の表面を昆布でおおっている。昆布のエキスが出てうまみが増す。

味噌はまず豆を茹でて潰す。潰したら塩と麹をよく交ぜて仕込む。昔は「味噌玉」を作って、いろりにぶら下げて乾かした。いぶされて味噌が黒くなったものだ。
私の家の蔵では、いくつもの大きな樽に味噌が仕込んであった。母親の実家には味噌専用の蔵「味噌蔵」があった。
昔は3-5年置いた味噌しか食べなかった。新しい味噌だと美味しくてたくさん食べてしまうので、食べ過ぎないように古い味噌を食べていた。昔は家族がたくさんいたので、経済が優先された。うまいものは食べさせられない時代だった。栄養的には古いもののほうがいい。

(堆肥)
昔はどこの家も馬や牛を飼っていた。あぜなどで刈った草を干して馬や牛の小屋に入れた。馬や牛に踏まれた草が貯まると、小屋から出して積み上げていった。それが堆肥の山で「肥山」と呼ばれていた。
春先の雪どけ前になると肥山から堆肥を出し、そりで離れた田んぼまで運んだ。田んぼに積もっている雪に一辺2mくらいの四角い穴を掘って、その中に堆肥を入れた。雪が溶けると堆肥だけが山になって残っているので、背負い式のカゴに移して田んぼに散らした。このカゴを「肥カゴ」と呼んだ。背負子に木で枠をつくって、縄で網をつけたもので、田植えの際の苗運びでも同様のものを使った。

(田植えと「結」)
昭和20年代頃までは6月末まで田植えをしていた。人を頼んだり、「結」をしたりして、5日から10日間をかけて田植えをした。結は、だいたい同じくらいの仕事ができる気の合う人たちが集まってやっていた。
私の家では隣の集落から人を雇って田植えをしてもらった。家に泊まってもらい、自分たちで作ったどぶろくを飲んでもらった。

(苗)
苗作りにも肥料を使えば生長がよくなると思う。化学肥料は即効性があり種類も多いので、早く苗を大きくすることができる。有機肥料は効きが遅いので、苗の生長に時間がかかる。化学肥料を使用する現代の一般的な農業では1週間から10日で苗が育つが、それ以上の時間がかかっている。天候に大きく左右される。
昔は苗作りの温度調節にロウ紙を使った。春先、「水苗代」を作ってもみをスジまきし、もみがらを焼いて作った「くん炭」をかけ、さらにロウ紙をかぶせて保温した。

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(Q:タイ米を輸入したほどの冷害のあった年と、今年はどっちが寒いか)
冷害の年は田植えの時は良かったが、その後寒くなった。東北は「やませ」が長期間吹いて大変だった。この辺は1〜2割落ち程度で、そんなに影響がなかった。
長年付き合いのある人に米を送ると「行列を作って米を買ったり、タイ米を買ったりせずに済んだ」と感謝された。1俵10万円でもいいから欲しいという人もいた。
今年は、田植え直後に気温が上がらない日が続いたが、最近の天候は上々だと思う。梅雨にちゃんと雨が降っている。夏にどうなるかで決まる。

(Q:田んぼの雑草は、コナギ以外に何があるか)
ヒエやオモダカ。雑草ではないが、今年はアオミドロが多い。

(Q:あぜ豆は昔からやっているそうだが、豆を狙って食べにくる動物はいるか)
昔は苗ではなく豆をあぜに植えたので、ハトが食べに来た。豆のサヤができるとウサギやタヌキが食べに来る。最近はイノシシが出るようになった。あぜ豆は食べないが、ヤマイモなど他の作物に被害があった。サルは出ていない。