レスター・ブラウンさんの講演要旨

レスター・ブラウン氏は、小さな紙数枚に書いたメモを片手に話す。パワーポイントの紙を手元に持っているような感じだ。
*低炭素社会に向けて
2020年に温暖化ガスを80%削減するのは大変かと思われるだろうが、そう大変ではない。手段が2つある。1つ目はエネルギーを効率的に使うこと、もう1つは再生可能エネルギー。このままグリーンランド氷床が溶けると、世界の海面水位は7メートル上がる。1メートル上がっただけで、バングラデシュの穀倉地帯の半分が消滅する。

*エネルギー効率
照明をLEDに変換するだけで90%のエネルギーを節約することができる。

*再生可能エネルギー
テキサスは産油地帯。しかし、いまそこに大量の風力発電所が造られている。テキサスはいまや風力エネルギーの輸出州になっている。

*中国
過去5年で2倍の風力発電設備が出来た。中国とアメリカの合同調査があって、それによると中国には、必要量の7倍を賄うことができる風力資源があることが分かった。

*米国
ノースダコタ、テキサス、カンサスの3州で全米の電力需要をまかなう風力資源があることが確認された。

*欧州
COP15が開かれれた際に、ミュンヘン再保険会社は、「デザーテック」構想を打ち上げた。北アフリカと欧州に電力供給網(グリッド)を設定して、北アフリカの太陽光、風力エネルギーを欧州に送る計画。これは完全な民間の計画だ。

*アルジェリア
アルジェリア一国の太陽光エネルギーで、全世界のエネルギー需要を賄うことができる。

*モルテンソルト(molten salt)
太陽光エネルギーでこの講堂と同じぐらいの容器にある塩を融解して液体にし、それを深夜まで熱源として使う。塩は真夜中に再び結晶になって、翌日の太陽でまた液状になる。夕方のエネルギー需要にあわせて太陽光を使うことができる。

*発電施設の製造
風力発電を何百万台も作ると言うのは大変だと思われるかも知れないが、自動車は毎年6500万台も作られていて、その設備が余り始めている。それを使えば不可能なことではない。

*石炭から風力へ
米国では、2007年から2009年にかけてエネルギー消費がマイナスとなった。連邦議会で気候エネルギー法案が否決されたことで否定的に見られているかも知れないが、石炭発電所の設置計画を白紙にする動きが進んでいる。

*輸送
米国の自動車台数がついに2億4900万台から2億4600万台に減った。2020年までに10%減るだろう。それはアメリカ人の81%が都市に住むことになったからだ。昔は車を乗り回すのが若い時代の遊びだったが、いまは携帯電話だ。ハイブリット車や電気自動車も普及する。ガソリンエンジンよりもモータの方が3倍、効率がいい。この結果、ガソリンの消費量が初めて減少している。

*欧州
都市間輸送が車と飛行機から、高速鉄道に移動している。ドイツやフランスがその牽引車だ。中国もそうだ。アメリカも日本に比べると一世代遅れているが、カリフォルニア州南北縦貫鉄道やフロリダ州での導入が計画されている。

*効率のいい建物
建物もcarbon neutralなものが出てくる。照明も暖房も冷房も全部温暖化ガスを出さない仕組み。

*エネルギーの多様化
インドネシアは地熱の利用が進んでいる。どのように化石燃料から再生可能エネルギーに移行できるかは地域ごとに違うだろう。日本は地熱ではなのか。1万もの温泉がある場所で、なぜわずかしか使われていないのか。この分野では世界的リーダーはいない。大きなチャンスが待っているのではないか。

*3本柱
風力、太陽、地熱は三本柱。20世紀は石油の世紀。それはある限られた場所からエネルギーを世界中に供給した。今世紀は、エネルギーをそれぞれの場所で作り出す時代。電気は静かだ。町は静かになり、きれいになる。

レスター・ブラウンさんのキーフレーズ

レスター・ブラウンさんは、名言の人のようです。講演の中でもいろんないい文章を語っていました。
私たちはみな、経済的な意思決定者である(we all are economic decision makers)

市場は真実を語っていない(market is not telling the truth)

ある人はこう語っている。共産主義は経済的な真実(economical truth)を見抜けず崩壊した。資本主義は生態学的な真実(ecological)を見抜けず崩壊するだろう。

私たちはものを知らない。アマゾンの森林破壊がどこまで進んだら、乾燥化によって一気に崩壊するのか。それが何年後なのか。
私たちはものを知らない。溶け続ける氷床がどこまでいったらもとに戻ることができなくなるのか。それが来年なのか20年後なのか。

社会の変化のためには、そんなに大勢の人は必要ない。地域から中央までの政治構造を知り、ロビー活動が出来、効率的に働くことができる人が、数千人いれば、社会は変わる。それがアメリカで石炭火力発電所を廃止する方向に追い込んだ事例から分かる。もっとたくさんの人が理解すればそれは手助けにはなるが、必要なことではない。

原子力には、ウォールストリートはこの30年間投資していない。つまり経済にあわないということだ。廃炉にした後のコスト、万一の事故に備えた保険のリスクなどを考えたら、経済的には成り立つものではない(not economically viable)。

低炭素社会をどう作るか。これは私たちの時代のチャレンジだ。次の世代に渡したら、その時ではもう手遅れなのだ。

レスターブラウン氏の記者懇談会の発言要旨

レスター・ブラウン氏は、27日夕の記者懇談会で「これはもう戦争だ」と強い危機感を表していました。

まもなく日本で発売される著書「プランB4.0」の要点は以下の4つだ。
1、温暖化ガスを2020年までに80%削減すること、
2、世界の人口を80億人に抑えること
3、貧困をなくすこと
4、森、草原、土地、地下水、海など自然資源の復活に努めること。

これは、もう戦時であるといっていい。動員が必要なのだ。政治家たちは2050年に80%という目標を掲げている。政治家には支持が必要なのでそういうが、科学的にいうとそれでは遅い。

一方で期待できることも起きている。

中国ではきわめて大規模は風力発電の試みが始まっている。北アフリカでの太陽光発電、風力発電を欧州に送る民間の計画もある。とりわけ中国は、これまでの路線を転換して、7つの巨大風力発電所の建設をしている。

アメリカでは、ついに自動車の利用が減り、石油使用量がマイナスになってきている。

日本政府が持っている2020年に10%削減という目標は、低すぎる。日本には1万の温泉があり、浅い場所から地熱を取り出せる利点がある。世界的に地熱分野では先導者はいないので、この分野で日本は世界の主導者となれるはずだ。

私が今回のプランB4.0の副題に、「Mobilizing to Save Civilization」(文明を救うために、動員せよ)という言葉を使ったか。

もはや、宣戦布告が必要な状況なのだ。私たちは、安全保障(Security)という言葉を定義し直さなくてはならない。前世紀の危機は、国家国土への軍隊の侵略だった。しかし未来の脅威は、ピークオイル(石油の枯渇)であり、ピークウォーター(水の枯渇)だ。今後50年このままのことをしていて人類が続くことはあり得ない。
シュメール文明は地下水の過剰な汲み上げによる塩害で滅んだ。森林破壊、極地の氷床融解、海氷の消滅、地下水の過剰くみ上げ、温暖化ガスの増加、魚の乱獲。この中の一つとして、われわれはまだ解決できていない。

問題はすでに始まっている。たとえば食料の高騰。大豆がこの数年で3倍に高くなった。いったんは落ち着いているが高値で止まっている。さらにまた高騰することだろう。これまで通り(business as usual)ではいけないのだ。

だから私は、「mobilize(動員)」という戦争用語を使ったのだ。

「未来の脅威は環境問題」・・・レスター・ブラウンさんが語る

米国の環境学者レスター・ブラウン氏を招いたシンポジウムが、2010年5月27日に東京都千代田区の憲政記念館で行われました。

 

熱意あふれる言葉がトークセッションで飛び交いました。
熱意あふれる言葉がトークセッションで飛び交いました。

シンポジウムは、ブラウン氏の基調講演の後、竹田義信・アサヒビール社会環境推進部長と高野孝子・エコプラス代表理事の3人でのトークセッションが行われました。

ブラウン氏の基調講演の中で、「低炭素社会に向けた方法論はすでにある。太陽、風力、地熱の3つで、これまでの化石燃料に頼った発電を置き換えるのだ」と主張。すでに中国やアメリカで大規模な取り組みが進んでいることを紹介しました。特に去年のCOP15にあわせて欧州のミュンヘン再保険会社が提唱した「デザーテック」構想を取り上げ、北アフリカの風と太陽のエネルギーを欧州に供給する事業を、政府が関与しない民間の試みとして高く評価していました。

会場には300人近い会社員や若者が詰めかけました。
会場には300人近い会社員や若者が詰めかけました。

ブラウン氏は、「グリーランドの氷床が全部融解すれば、全世界の海面が7メートル上昇する。私たちはいつその限界を迎えるのか、まだ何も知らない。表土の崩壊、魚の乱獲、森林破壊、温暖化ガス。あらゆる課題について何一つ改善を出来ていない人間社会は、文明崩壊の危機にある。次の世代では間に合わない。私たちの世代でこの解決に当たらねばならない」と強い警告を発していました。

山里生物多様性保全プロジェクト 〜清水いきもの復活大作戦・春の巻〜 開催

都市部の学生など若者を中心とした21名が参加して、5月22-23日に新潟県南魚沼市清水地区で、地元の皆さんと地域の生態系を保全するための作業を行いました。
山里生物多様性保全プロジェクト〜清水いきもの復活大作戦・春の巻〜が、2010年5月22-23日に開催されました。参加者は首都圏からの学生や若い社会人が大半で、活気のあるメンバーとなりました。

畦の上に木道を整備し、ビオトープを作りました
畦の上に木道を整備し、ビオトープを作りました

初日は、2日間の作業概要の説明後、清水地区の西谷後へ移動。休耕田の生物多様性を蘇らせるための生息環境(ビオトープ)作りや、それを観察するための整備作業などを行いました。
具体的には、地元の人たちの指導のもと、あらかじめ重機で掘った2ヶ所の池に土を盛って畦を作る作業や、長靴をはかずに現場を観察できるための木道の整備、周辺の木をその場で加工・使用した土留め作り、ドロバチなどが住めるように短く切った竹の束を木に固定する作業、などを行い、合わせて池の数箇所で水質検査を実施しました。

2日目は、当初予定されていたナメコのコマ打ち作業が残雪でできなかったため、清水地区大明神の休耕田に作った大小計8ヶ所の池で、前日と同様の作業を行いました。ここでは、池によって深さを変えるなどして、ハッチョウトンボなどの生物が戻ってくるための工夫を凝らしました。

枝を集めて、池に打ち込んだ柵の間に通し、昆虫が生息しやすいようにします
枝を集めて、池に打ち込んだ柵の間に通し、昆虫が生息しやすいようにします

2日間を通して、参加者は普段見ることのない豊かな自然を満喫しながらも、慣れない肉体労働に悪戦苦闘の連続。それでも、作業の要領を覚えたためか、2日目からテキパキと作業をこなし、途中から雨が降り出したにも関わらず、予定よりも一時間も早く作業を終わらせるなど、地元の人たちを驚かせました。

ふりかえりでは、自然とのつながり、そして清水地区の人たちと出会って交流できたことに感謝する声が相次ぎ、清水の人たちからも再会を楽しみにしているとのメッセージが贈られました。

今回の作業を通して、参加者は、農山村の生物多様性を保全していくことの大切さを実感するとともに、地元住民との交流を通して、自然と近い暮らしのあり方や人と自然の関係について深く学ぶことができたものと思います。

‘10いきものプロジェクト第1回報告

5月23日(日)早朝6時から、バードウォッチングを中心に生きもの調べが行われました。野鳥のおもしろい行動をいくつも観察することができました。

5月23日(日)に、南魚沼市栃窪集落で2010年度第1回目の「栃窪いきものプロジェクト」が行われました。集落内外から14人が参加し、講師で小出高校教諭の深沢和基さんの説明を受けながら、バードウォッチングをメインに野鳥や生きものを観察しました。

山の方で大きな鳥が2羽飛び交う様子を見守る参加者たち。どうもケンカをしているようでした。大きな鳥は、サシバとトビでした。
山の方で大きな鳥が2羽飛び交う様子を見守る参加者たち。どうもケンカをしているようでした。大きな鳥は、サシバとトビでした。

杉の木の先にとまったハチクマにカケスが嫌がらせをするところや、サシバとトビが対決するところを目撃したり、アオゲラのドラミングにじっと耳を傾けたりしました。ドラミングを聞いた場所から6、7分移動した場所で、杉に木に新しく開けられたと思われるキツツキの巣穴を見つけました。また、遠くの木の先にとまったカワラヒワを単眼鏡で観察し始めたら、じっとして動く様子がなく、スケッチをした子どももいました。

昨年同じ時期にモリアオガエルが産卵のために集まっていた沼には、今年はモリアオガエルの姿が見当たりませんでした。沼の周辺に、マンサクやキクザキイチゲなど早春の花々が咲いているかと思えば、夏の花であるオオバキスミレも同時に咲いているという場所があり、今年の気候が平年と異なるということが確かめられました。その他の水辺2か所では、モリアオガエルの卵のみ確認できました。

エゾタンポポ。つぼみを見ると、花のつけねにあるガクが花びらなどと同じように上に向かっています。セイヨウタンポポはこのガクが下向きに反り返っています。
エゾタンポポ。つぼみを見ると、花のつけねにあるガクが花びらなどと同じように上に向かっています。セイヨウタンポポはこのガクが下向きに反り返っています。

深沢さんがタンポポを見る度にエゾタンポポかどうかを確認していたので、子どもたちも見分けるポイントを教わって探しましたが、セイヨウタンポポばかりで見つかりませんでした。集落センターに戻る少し手前で、地元の人が「うちにあるから」と庭に通してくれ、エゾタンポポを観察することができました。

ふりかえりでは子どもたちから「サシバがかっこよかった」「たくさん鳥を見られてよかった」などの感想がありました。

2010年田植えに21人が参加

さまざまな国の親子連れなど21人が、2010年5月15-16日に南魚沼市栃窪地区で、地元の皆さんと手植えによる田植えをしました。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA 2010年度の休日農業講座「田んぼのイロハ」第1回『田植えと講座「稲作概論」』が、5月15-16日に開催されました。

参加したのは、首都圏からの親子連れや社会人、学生、など。

初日は、地元の笛木健作さんを講師に、まず苗代見学。田植え準備が進む田んぼの間をゆっくり歩きながら、雪をいただく越後三山など2,000メートル級の山々を背景にした絶景を楽しみました。苗代では、苗を実際に見ながら田植えまでにどのような準備が必要かなどを学びました。

座学では苗代作り、田植えそして稲刈りという稲作の一連の流れ、さらに栃窪における米作りの歴史や今後の課題について講義を受けました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 2日目、快晴の下で田植えに挑戦。裸足で田んぼに入って感触を楽しみながら、苗を手で植えていきました。

かなりの重労働でしたがみんなでがんばって、昼ごろには1.2反の田植えが完了しました。曲がらずに真っ直ぐに植えられたと地元の方もほめてくれました。その後田んぼで食べたお昼ご飯が格別に美味しかったです。

この広さの田植えは、機械を使えばほんの2-30分で終わってしまうそうです。それをあえて手植えすることで、守れるものは何だろう、感じられるものはなんだろう…。講義と実践を通してそれぞれがそういう思いを持って帰路につきました。少しの身体の疲れといっしょに…。

田植え座学「稲作概論」その1

一般的な稲作の作業には、苗代と本田の2つの仕事があります。
[苗代作業]
1)モミを塩水選にかける
モミを塩水の中にいれ、下に沈んだ、実がしっかり入っているものを選ぶ。

2)モミを消毒する
消毒の方法は2つ。1つは農薬による消毒。もう1つは湯温消毒で、モミをお湯に30分ほどつけるやり方。

3)胚芽を出しやすくする
モミの中にある胚から芽が出やすいように、40度くらいのお湯に一晩つける。

4)モミをまく
焼いた粘土を箱に詰め、モミをまく。

5)苗を育てる
まだ周りに雪がある頃にビニルハウスを立て、その中で苗を育てる。はじめのうちはストーブで加温する。昼間は日差しであたたかくなるので、窓を開けて空気を通すことも必要。苗専用のプールで育てるやり方もある。また、農協で苗を育てて売っているので、自分で苗を作らずに買ってくる農家もある。

[本田作業]
1)畔かけ
今は機械を使いやすいように田んぼを長方形に整備し、畔も機械で固めて作っているので、畔かけの必要がない。昔は毎年新たに畔を作った。土の中にケラという昆虫がいて、畔にもぐって小さな穴を空ける。ケラを狙ってモグラが入ると、モグラを狙ってネズミが入り、ネズミを狙ってヘビが入る。そうやって一年で畔は穴だらけになり、田んぼの水がもれ出すようになるので、穴を埋めるために畔かけが必要だった。

2)肥料まき
有機肥料はじっくり効き、化学肥料はすぐに効くのが特徴。肥料を遠くに飛ばせる専用の機械があるので簡単にまける。

3)荒起こし
冬の間雪で押し固められた田んぼの土を、トラクターで砕く。

4)代掻き
田んぼに水を張り、土をさらに細かく砕いて平らにする。

5)田植え
手植えと機械植えがあるが、今はほとんど機械植え。苗代で育てた苗を田植機で植える。手植えの場合、かなり腕のいい人でも1日に1反(10アール)ほどが限度なので、昔は親戚中が集まって田植えをしていた。田植機を使うと1反20分で終わるので、日曜だけの農家でもできる。

6)除草
田植えの直後に水をはって除草剤をまき、雑草の種を殺してしまう。稲には効かないがヒエに効くという除草剤がある。パノラマ農産では除草剤は使わず、手作業で行う。田の草取りは6月くらいまで。

7)病気対策
病気がでれば農薬を散布する。イモチ病は広がると怖いので、早めに菌を殺すのが大事。

8)草刈り
畔には大型のカヤやススキのようなものが生えるが、一度刈ると勢いが弱る。カヤにはカメムシがたくさんいるので、放っておくとカメムシが増え、稲の汁を吸われ斑点米ができてしまう。草は6月、7月、9月に刈る。8月に刈ると畔に居場所がなくなったカメムシが田んぼに入ってしまうので、刈らない。

9)溝きり
稲刈りに備えて田の水を落とすために溝を作る。今はコンバインを使うので、機械がスムーズに動くようにするために排水の悪い田んぼには重要な作業。

10)稲刈り
コンバインで刈る。コンバインの優れているところは稲を刈りながら脱穀し、ワラを田んぼに散らかしていくことだ。

11)乾燥
モミは温度乾燥機にかける。手刈りだとハザにかけて天日で乾燥させる。そこまでやると10月になり一段落。

12)出荷
出荷する先はJAがほとんどだ。

田植え座学「稲作概論」その2

栃窪集落について
栃窪は東から南が開けた地形で眺めがいい。裏山の向こうの日本海から風が吹き、雪を降らせる。ちょうど吹きだまりなる地域で豪雪の村として知られている。1年の5ヶ月以上が雪の中になり、農閑期となるので、昔から水田単作地域で自給農家ばかりの村だった。

現在の戸数は57。最近まで60戸あったが、高齢になり息子さんのところに身を寄せた人や、息子さんが下に家を建てたので一緒に移り住んだ人などがおり減った。

会社員がほとんどで、冬もここから通勤をしている。農業は日曜日にやる、小規模の兼業農家ばかりだ。

50年前は「ヤマヒビキ」という1反(10a)で10俵(600キロ)を超える収穫がある品種のコメを作っていた。この背景には出荷したコメの全量を国が買い取ってくれていたことがある。昭和39年東京オリンピックの頃を境に全国的なスキーブームが来た。魚沼にも次々とスキー場ができた。農家は冬の仕事として、民宿をしたりスキー場に勤めたりし、出稼ぎをしなくてよくなった。

スキーブームが始まった頃と同時に、コシヒカリが作られるようになった。コシヒカリはヤマヒビキの半分程度しか収量がなかったが、研究をし、多く穫れるようになった。スキー客に出すコメがコシヒカリで、ご飯がおいしいと評判になったことで、魚沼産コシヒカリは全国的に有名になった。他の新潟県内産のコシヒカリと食べ比べても魚沼産のものは違う。他の新潟県内地域のJAでは1俵(60キロ)1万8千円のところ、南魚沼のJAでは2万2千円以上で引き取ってくれる。

スキーブームは終わっているので、これからが課題だ。ハウス栽培ができると有利な点があるが、このあたりでは積雪が多くコストもかかり過ぎるため、ハウス栽培できない。

田植え座学「稲作概論」その3

農業の歴史
栽培する品種がコシヒカリに変わってきたと同時に、牛や馬が耕運機に変わった。牛や馬を使っていたときは循環農業だった。牛や馬にワラを踏ませて堆肥を作って使っていた。毎年田に堆肥を入れていた。

昭和40年代になると機械化が進んだ。機械を効率的に動かすため1枚の田んぼを大きくする必要が出てきて、土地改良が進んだ。省力栽培が可能になり、効率化と無機栽培が進められていき、農作業が楽にできるようになった。

農薬には功罪がある。除草作業をしなくてよくなったし、病気にならなくなった。化学肥料も即効性があり、稲の様子をみながら量を調整することができた。日曜農家でも稲作ができるようになった。

一方、無機栽培をずっと続けると、有機物がなくなり、土は砂漠のようになってしまう。

昭和40年頃から、全国的に公害が騒がれた。熊本の水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市の喘息などがあった。初期の農薬はそういったものだった。

初期の除草剤でPCPというものがある。田んぼに散布すると水がロゼワインのように赤くなる。1週間くらいかけて除草する。稲には効かないがヒエには効く。ドジョウやヒル、オタマジャクシ、ゲンゴロウなどの水生昆虫が、全部水の上に浮き上がった。田んぼから排水された水は水系を伝わって川に出てきたので、トンボもホタルも見なくなった時期があった。

田んぼに有機水銀系の農薬を使った。学校ではお腹にいる寄生虫を殺すために子どもに飲ませていた。みんなが無知で人体への影響を知らなかった。昔の作業着は「さんぱく」という薄手のズボンだったので、水銀剤のセレサン石灰をまいた後に風呂ですね毛がぴりぴりして抜けたことがあった。

昭和38、39年に使っていた農薬に比べれば、今の農薬はとてもやさしくなっているが、農薬は農薬なのでできれば使いたくない。

昔、日本は田舎に行けばみんな農家だったが、農立国から商工業立国になった。生産物を売る農家になりなさいという政策だった。農家を減らすには有効な政策だった。ただ日本的な農家は、大規模なファーマーにはなり切れないのだと思う。