昔の稲刈りから精米まで

座学では、昔の稲刈りから精米までの様子や、ワラ仕事について、笛木徳治さんから教わりました。
(稲刈りから精米まで)
1、稲刈り
今はコンバインで刈るために乾田だが、昔は湿田だった。田んぼの土はとてもぬかるんでいたので、刈り取る前の稲の上に刈り取った稲を置いて束ねた。稲の束は雑木を束ねて作った舟の上に置いた。
9月下旬から10月いっぱいまでかかった。昔はどこの家にも子どもも含めて6−7人の働き手がいた。牛や馬も家族同然にいた。

2、乾燥
天日乾燥にするため稲をハザにかけて乾かしたが、大変だった。昔は集落中でよくハザカケの光景が見られたものだった。
まず横一列に並んでいる数本のスギに12段か13段、縄を横渡しに張って「ハザ」作った。人間の背丈は3段目くらいまで。はしごをかけて1人がはしごに登り、もう1人が下から稲の束を投げ上げた。投げる方は上の人が取りやすいように投げなくてはならない。はしごが倒れることもたまにあった。命綱はもちろんなかった。
すき間なくかけると風にあおられて倒れてしまうので、「風穴」をあけてかけた。
ハザは田んぼの周りではなくて、家の周りにあった。刈った稲は馬や牛に運ばせた。人が手のひらで持てるくらいの束を1把(わ)と呼ぶ。12把で1束(そく)。馬は12束、人間は1束半を背負った。1反で120束くらい収穫できた。
雨の日も含め2週間くらいハザカケにしておくと、水分量が16%ほどになる。それより水分量が多いとカビてしまうし、乾き過ぎていると米粒がひび割れる。日の光というよりは、風に当てると乾く。乾燥が終わったら、家の近くの濡れないところに置いておく。現代は乾燥機で40-60度の風をあてて一気に16%に調整する。

2、脱穀
家の中に稲を持って来て脱穀した。60年ほど前までは足で踏んで動かす脱穀機を使った。1日やっても50束くらいしかできなかったのではないか。正月までかかった。

3、もみすり
昔は土臼を手で回して引いて玄米にした。

4、精米
臼に玄米を入れて、杵でついて精米した。新米が食べられたのは正月が過ぎてからだった。精米機が入ったのは終戦頃だったのではないか。玄米で食べることはなく、白米で食べた。7部つきはあった。
みんな米をよく食べた。家に30俵(ぴょう)の米を1年分として置いていた。10人くらいの家族だったので、1人あたり3俵。1俵は60キロなので、180キロほどだ。今は1人あたり年間1俵くらい食べていると言われているので、3倍だ。昔は米俵も編んだ。米俵が30個をくらい家の中に積んであった。昔は誰でも米俵1つくらいは簡単に担いでだが、今の人は担げないだろう。昔の人はよく動いたので、ご飯もよく食べた。

今は今日刈った稲を明日食べられる。今は手を抜いているので、どこか味が落ちるのかもしれない。昔は本当に手間をかけていた。
(今年の作柄)
米には等級があり、1等から3等と等外がある。資格をもった検査員が生育不良で白く濁った米が入っている割合を見て等級を決める。今年は夏が暑かったせいか、新潟県内で1等米は16〜17%しかない。普通は3割以上になる。栃窪は標高が高いために100%1等米だった。

 

講師の笛木徳治さんによるワラ仕事の実演。ワラはよく叩いてから使わないと使いものにならないとのこと。ひとつかみくらいの量を、10分くらい叩くそうです。
講師の笛木徳治さんによるワラ仕事の実演。ワラはよく叩いてから使わないと使いものにならないとのこと。ひとつかみくらいの量を、10分くらい叩くそうです。

(ワラについて)
コシヒカリのワラは丈夫でしなやかで良い。ワラはまず叩いてから使う。1把に対して。叩くとしなやかで強くなる。昔はどの家にも囲炉裏の隅にワラを叩く台にする石があった。今はワラを叩く機械がある。
昔ワラはとても貴重なもので捨てるところはなかった。ワラでいろいろなものを作った。冬の間中、ワラ仕事をしていた。1日でわらじは10足、わらぐつは5足くらい作れた。背負子は丸1日かかる。米俵も作った。
今はほとんどがコンバインで刈り取られるため、ワラが短く切られてしまい、ワラ細工できるワラが少なくなった。

ワラジを作っているところです。参加者は徳治さんの手さばきのあざやかさに感嘆の声をあげていました。
ワラジを作っているところです。参加者は徳治さんの手さばきのあざやかさに感嘆の声をあげていました。